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TAP (グレッグ・イーガン)

奇想コレクションとしてハードカバーで発行されているので、見逃していた本。

初訳の短編を纏めたものだが、イーガンが今のように SF の旗手となる以前の作品も含まれているため、どちらかというと「銀炎」「散骨」などのホラーの色彩が強い作品が多い。それでも、冒頭の「新・口笛テスト」と最後の表題作「TAP」があるので、ああイーガンなんだなと安心できる一品。

表題作の TAP については、あとがきでも触れられているがイーガン版「夢の樹が継げたなら」と言うのがしっくりくる。森岡浩之の同作品が第17回ハヤカワSFコンテストで入選したのが1991年。イーガンの作品は1995年と、(関連性は無いが)時代的にも近い。

(一応、以下未読の人注意)

ただし、その内実は同じ「全てを表す言語」といってもかなり趣が違う。TAPの脳内状態の言語化に対し、ユメキ(夢の樹が継げたならの言語)は外部状態全ての描写の言語化となる。

そのため、TAPは自分自身の認識する範囲において、あるいは他者から渡される自分自身の状態の言語化において優れるが、ユメキの場合は周囲の全てを描写し把握する所からもたらされる認識の強化が主であり、感情の共有までは持たない。

TAP の場合は「悟り」などの状態を共有できるが、自身の知能の向上までは行えない。ユメキはそれに対し複雑な数式をすっきりと理解できる認識の向上があるが、認感情の共有はできない。この事から、TAP は内面の共有化を果たす言語、ユメキは認識の共有化を果たす言語、と区別することもできる。

ということは、ユメキ適合脳に TAP 技術を適用したらどうなるか。ユメキにより強化された認識がTAPにより共有される。ユメキ単体では問題となる他言語能力の喪失も、脳のスキャンというTAPの仕組みからすれば、多少の手直しは必要だろうが回避できるだろう。そこに出来るのは、認識を共有できず、交流はできるものの認識を受けとったとしても理解できない子供達。果たしてそれは人間なのか…というのを二次創作としてミックスして書くと楽しそうだと思った。

本書のいくつかの作品に関しては、志村弘之、八代嘉美両氏に用語チェックをお願いし、お知恵も貸していただいた。(強調は筆者)

ところで、このような一文があるわけですが。よないせんせーはなまもの系SFの監修として大活躍のようですね。おめでとうございます。

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